2009年12月29日火曜日

「タンゴはうなりだ!」の数学的表記

今年中に一度まとめておこうと思ったので書いておきます。

※以下、算数・理科アレルギーの方は、読むのはおやめください。


タンゴはうなりだ!

と、言いますが、一体、タンゴの何がうなりなんだ?
そして、それは科学的にはどう説明されるべきか、最近考えるようにしてきました。

結論からすると、うなりというのが、体にとっても正直に、
タンゴ音楽とダンスを橋渡ししうる、一つの変数であっても何ら不思議ではないでしょう。


1.うなりとは、

うなりとは、前にも日記で書きましたが、
ギターやピアノを調弦するときに、近い音がすると音叉がウワンウワンとうなる現象のことです。

具体的に、このウワン、という音が何?なのかというと、

単純な正弦波の例で言うと、
周波数w の音と 周波数w+a の音が重なることによって、いつもの音に 周波数 a での音の強弱が加わることになります。

つまり、元々 sin (w×t)だった波だとすると、 2 × sin (w×t)× cos(a×t / 2) みたいな波になる、その cos(a×t / 2) の部分が、ウワンウワンという表現になるということです。

たとえば、2人がバイオリンを少し近い音でならしている時、一秒ごとにウワンウワンと言っていたとします。

だんだんと、さらに音を近づけることによって、a が 0 に近づくのだから(cos は 直角三角形の斜辺と底辺の比だと考えて、0度になると 1 になります)、ウワンウワンはどんどん遅くなります。そして、音が重なると、ウワンがなくな る。

タンゴ的な情景を思い浮かべてみると、
きっちりと調弦されたバンドネオンが、ファーっと長い音を出しているときに、
バイオリンが歌いだします。

ああ、皆さんも既に自然にくねってましたね。そんな感じです。


2.たとえば、回転とは、

タンゴダンスってのは、ご存知のように、
大きい音が出たからといって、大きく踊るわけでもなく、
早い音が出たからといって、速く?早く?踊るわけでもなく、
高い音が出たからといって、高く?踊るわけでもなく、
全ての音について、どう踊ろうが決められていなくて、別に怒られもしないし、
それなりに毎回違う即興ダンスが楽しめる訳です。

そして、上で説明したような、うなりがあったからと言って、以下のような理屈で回転すべきだという訳では決してありません。

私の場合はこう感じます、くらいの話です。


私の場合、うなりがあったら、下のような算数の教科書に乗っていた複素数の式やらオイラーの公式やらが出てきます。

z = cos θ + i sin θ

進んでいる方向に対して、うなりが感じられると、
少しヒーロをいれたくなったり、ねじってみたくなったり、
コルガーダしたくなったり、あ、この感じはボルガーダか。みたいな。

そんな衝動が自然に体に巻き起こります。


※理論的に、うなりに、ご興味がある方は、以下が多少分かりやすいです。
うなり、トレモロについて
うなりとフーリエ級数


3、他にも、

他にも、色々特定の動きを誘発しそうな、タンゴの音はたくさんありますね。

単純に刻みだけじゃなくって、

遠心力をつかいたくなるような音、とか、
まっすぐすすみたくなるような音、とか、
ボレアーダを鋭くいれてみたくなるような音、とか、
チョロチョロと歩いたり、重々しく歩いたり、狂おしく何かを訴えたくなったり、

一体ナンなんでしょうね?

2009年12月26日土曜日

ダンスの演奏 について思うこと ’2009

昨日はクリスマスということで
高場将美さんのギターと峰万理恵さんの「うた」を聞いてきました。

素晴らしい「うた」とご演奏、そして集まられた方々とも様々なお話を聞くなかで
いくつか共感したこと悲観したことなどなどありましたので
今年色々感じたことを含めて備忘録です。


以下のような事を軸にまとめます。

1)そもそも「伴奏」という言葉
2)タンゴダンサーから感じる「伴奏」への欲望
3)踊れないタンゴは、タンゴかどうか?


1)そもそも「伴奏」という言葉

高場先生は『「うた」の伴奏』という言葉を選ばれていましたが、
つまり歌をメインディッシュとした、おかずだったというニュアンスと捉えました。
もちろん、そこにはダンサーなんていないし、いわゆる私達が「うたもの」と呼んで特別視しているような音楽かもしれません。

ただ、やはり聞いてみて強く感じたのは、「伴奏」というのは従属関係ではないのではないか?ということ。
さきほどメインディッシュという言葉を使いながら何なのですが、歌と伴奏で互いに支えあって完結しているものだということです。


2)タンゴダンサーから感じる「伴奏」への欲望

同様に、『「ダンス」の伴奏』という言葉、そういう物なんじゃないかと思います。


ただし、
比較的ダンサーは長年レコード・CDなどの乾き物で踊る機会が多いから、
一般に「伴奏」=「ダンスのためのBGM的?」のような感覚も強いのではないかと、
実際私もそのような感覚を否定しきれていません。

そして「生演奏だなんて踊りにくい」。などと感情も当然そこにある。
それは固定のBGMであった方が踊りに集中できて踊りには都合がいいんです。
それはそれでタンゴの一つの考え方として完結しているような気がしますので、否定はしません。
というより、私も否定できません。

ついでに付け加えるならば、
「Tango Bailable」という言葉、
日本ではダンス向けタンゴ・踊りやすいタンゴ・バイラブレなタンゴ、などと訳しますが、
これもまた妙な言葉ですね。

こういう言葉を使うから、ダンサーは上から目線になったんじゃないでしょうか。

繰り返しになりますが、さきほど1で述べたような「伴奏」の定義に当てはめてみると、
一般にダンサーが求めるタンゴという物と違っていることが分かります。


3)踊れないタンゴは、タンゴかどうか?

ブエノスにいらっしゃる方が言う言葉が絶対だとは思いませんが、

踊れない・踊れるに関わらず、タンゴはタンゴなんだ、という感覚がそこにはあるでしょう。


そして、「タンゴ」とは・・・その解釈として、私の中で揺れているのは、

A-タンゴとは明確な「何か」である
B-タンゴとは結局全てである

という極端な2つ。


そして一方で、「元々のタンゴの発祥はダンス・歌・演奏が三位一体だった」という考え方からすれば、

C-タンゴというからにはタンゴダンスは少なくとも踊れるべきなんじゃないか?

という大前提もあります。


これら一見、支離滅裂に見えるいくつかのタンゴの定義たちも、

私は、さきほどの「伴奏」の定義で、乾き物でない、生の演奏に、
それを完結できる可能性を感じます。


ここで、「タンゴとは・・・」という定義は、先送りさせていただくとして、

少なくとも「ダンスの伴奏」=「踊れる音楽」と言っても問題ないかと思いますが、
つまり、タンゴダンスの伴奏としてのタンゴは少なくとも、踊れるタンゴ、という感覚で良いと個人的に思います。

そして、大切だと思うのが「ダンスの伴奏」=「踊れるタンゴ」≠「踊りやすいタンゴ」ということです。
つまり、ダンスの伴奏をするからと言って「ダンサー様どうぞ踊ってください」という風な卑下した感覚で演奏する必要が全くないはず!

なのに、今現在、ダンサー連中は「ダンサー様どうぞ踊ってください」という音楽を求めている、ということ、

そこに深いギャップがあるんだろうなぁ。


そういう方向性を狙って、2010年はタンゴを追い求めていこうと思いますが、
今オボロゲに考えるアプローチは、次の2つです。

1.ダンサーは、CDなどの乾いた音楽だけじゃなく、生の演奏とのヤリトリを楽しめるのではないか?
2.演奏家は、決してダンスに媚びへつらうことなく、ダンスとのヤリトリを楽しめるのではないか?


難しいだろうけど。

2009年12月23日水曜日

タンゴと疑心暗鬼

タンゴと他のラテンダンスを比べてみると、
やはり差が顕著なのが、そのタンゴ独特の内向性だろう。

また、タンゴのサロンダンスほど
その瞬間の即興性・その場への適応性が求められる踊りは無いかもしれない。


それだから、踊る男女は、その肉体の物理的近さだけでなく、ある程度の精神状態の集中と一致が無いと踊りにならない。

逆に言えば、
一旦何らかの疑いや不安が芽生えると、
不思議なことに踊れなくなる。

たとえば、
この人は私と踊りたくないのではないか?とか
この人は営業目的なのではないか?とか
この人は前にひどいことを言ったから嫌われているのではないか?
などと一旦疑いはじめると、踊りはその時点で終了する。

その人と踊れなくなるということは、
その人と交流が途絶えることを意味する。


それは、踊っている同士だけでない。
DJも音楽を奏でる人も酒を飲む人も踊りを見ている人も音楽を聞く人も。
全ての共感が無いと、場が完結しない。

そこでも、
一旦何らかの疑いや不安がはびこると、
不思議なことに場が盛り上がらなくなる。

たとえば、
あの人はあちらの人と仲が悪いらしい、とか
あの人はああいう曲をかけると踊らないらしい、とか
あの人はXX先生の生徒としか踊らないらしい、
などと言い出して噂の渦が巻き起こる。

そして、
ある人はそこに出入りしなくなる。


そしてこれは、ある一つの踊る場所に限定された話ではない。
タンゴに関わる人すべて、あるいはタンゴのことを小耳に挟むすべての人、
全ての共感が無いと、タンゴそのものが盛り上がってこない。

そこでも、
一旦何らかの疑いや不安に蝕まれると、
不思議なことにタンゴから足が遠のく。

たとえば、
タンゴの人は夜乱れた生活らしい、とか
タンゴの人は体をむやみに触ってくるらしい、とか
タンゴの人は社交ダンスを小馬鹿にしているらしい、とか

そんな簡単なことで
人が来なくなる。


それだから、
「場を盛り上げる」「踊りを気持ちよくする」そして「タンゴを盛り上げる」ということについて、

単純に値段やパフォーマンスの質やDJの選曲や踊りや音楽のスタイルだけで議論するのは早計で、
(もちろんそれも大事ですが)

そういった、様々な疑いを絶ち、疑心暗鬼を抑えていくのが、
タンゴにかかわる一人一人の役割であると思うし、
とくにタンゴにおいては、やはり一番大切なことなのではないかと思う。

次の時代のタンゴが盛り上がるか、盛り下がるか、

我々の心がけしだいだと思います。