2009年12月26日土曜日

ダンスの演奏 について思うこと ’2009

昨日はクリスマスということで
高場将美さんのギターと峰万理恵さんの「うた」を聞いてきました。

素晴らしい「うた」とご演奏、そして集まられた方々とも様々なお話を聞くなかで
いくつか共感したこと悲観したことなどなどありましたので
今年色々感じたことを含めて備忘録です。


以下のような事を軸にまとめます。

1)そもそも「伴奏」という言葉
2)タンゴダンサーから感じる「伴奏」への欲望
3)踊れないタンゴは、タンゴかどうか?


1)そもそも「伴奏」という言葉

高場先生は『「うた」の伴奏』という言葉を選ばれていましたが、
つまり歌をメインディッシュとした、おかずだったというニュアンスと捉えました。
もちろん、そこにはダンサーなんていないし、いわゆる私達が「うたもの」と呼んで特別視しているような音楽かもしれません。

ただ、やはり聞いてみて強く感じたのは、「伴奏」というのは従属関係ではないのではないか?ということ。
さきほどメインディッシュという言葉を使いながら何なのですが、歌と伴奏で互いに支えあって完結しているものだということです。


2)タンゴダンサーから感じる「伴奏」への欲望

同様に、『「ダンス」の伴奏』という言葉、そういう物なんじゃないかと思います。


ただし、
比較的ダンサーは長年レコード・CDなどの乾き物で踊る機会が多いから、
一般に「伴奏」=「ダンスのためのBGM的?」のような感覚も強いのではないかと、
実際私もそのような感覚を否定しきれていません。

そして「生演奏だなんて踊りにくい」。などと感情も当然そこにある。
それは固定のBGMであった方が踊りに集中できて踊りには都合がいいんです。
それはそれでタンゴの一つの考え方として完結しているような気がしますので、否定はしません。
というより、私も否定できません。

ついでに付け加えるならば、
「Tango Bailable」という言葉、
日本ではダンス向けタンゴ・踊りやすいタンゴ・バイラブレなタンゴ、などと訳しますが、
これもまた妙な言葉ですね。

こういう言葉を使うから、ダンサーは上から目線になったんじゃないでしょうか。

繰り返しになりますが、さきほど1で述べたような「伴奏」の定義に当てはめてみると、
一般にダンサーが求めるタンゴという物と違っていることが分かります。


3)踊れないタンゴは、タンゴかどうか?

ブエノスにいらっしゃる方が言う言葉が絶対だとは思いませんが、

踊れない・踊れるに関わらず、タンゴはタンゴなんだ、という感覚がそこにはあるでしょう。


そして、「タンゴ」とは・・・その解釈として、私の中で揺れているのは、

A-タンゴとは明確な「何か」である
B-タンゴとは結局全てである

という極端な2つ。


そして一方で、「元々のタンゴの発祥はダンス・歌・演奏が三位一体だった」という考え方からすれば、

C-タンゴというからにはタンゴダンスは少なくとも踊れるべきなんじゃないか?

という大前提もあります。


これら一見、支離滅裂に見えるいくつかのタンゴの定義たちも、

私は、さきほどの「伴奏」の定義で、乾き物でない、生の演奏に、
それを完結できる可能性を感じます。


ここで、「タンゴとは・・・」という定義は、先送りさせていただくとして、

少なくとも「ダンスの伴奏」=「踊れる音楽」と言っても問題ないかと思いますが、
つまり、タンゴダンスの伴奏としてのタンゴは少なくとも、踊れるタンゴ、という感覚で良いと個人的に思います。

そして、大切だと思うのが「ダンスの伴奏」=「踊れるタンゴ」≠「踊りやすいタンゴ」ということです。
つまり、ダンスの伴奏をするからと言って「ダンサー様どうぞ踊ってください」という風な卑下した感覚で演奏する必要が全くないはず!

なのに、今現在、ダンサー連中は「ダンサー様どうぞ踊ってください」という音楽を求めている、ということ、

そこに深いギャップがあるんだろうなぁ。


そういう方向性を狙って、2010年はタンゴを追い求めていこうと思いますが、
今オボロゲに考えるアプローチは、次の2つです。

1.ダンサーは、CDなどの乾いた音楽だけじゃなく、生の演奏とのヤリトリを楽しめるのではないか?
2.演奏家は、決してダンスに媚びへつらうことなく、ダンスとのヤリトリを楽しめるのではないか?


難しいだろうけど。

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