2011年7月20日水曜日

安全なダンス場

人間が動機に基づいて行動する、という
「マズローの欲求階層論」に従うならば、

ダンス場において「安全」というのは、
ダンスを楽しむ上でも欠かせないものだろう。



下位の欲求が満たされれば、
より上位の欲求を求めていく、
このマズローの欲求階層論を簡単にいえばそういう考え方。


あつい・ねむい・のどが渇いた・トイレに行きたい、

ダンサーが、そんな気持ちに支配されれば、
当然ダンスを楽しむという以前の問題で楽しめない。

そういう生理的な感覚は、そこまでの個人差が無い物だと考えられるが、
「安全」というのは、ダンサーそれぞれの感覚、という一面も強い。

「安全」が満たされれば、ダンサーはそれよりももっと上位の欲求にチャレンジできることになる。

「音楽に没頭する」、「自分のダンスを追求したい」、「二人のダンスを追求したい」・・・
というような個々の欲求がぶつかりあうダンス場になるためには、
まずは少なくとも「生理的」「安全」が満たされなければならない。



今日は、
このダンス場における「安全」というものについて、
特に最近の「安全なダンス場」に関する皆さんの議論を通して、

1)何故、安全じゃないから面白くない、というような【安全論者】が増えているのか。
2)何故、特定ダンススタイルの人やタンゴに新しく人を増やそう、という考え方の人と意見が食い違うのか。

という点について考えていこうと思う。

そして結論から言わせて頂くならば、

「安全」かそうでないかという基準は、
最終的には、個人の判断に委ねるのではなく、ダンス場が設定すべきであり、
そのダンス場において、それを満たせば楽しいという共通の一念をもってダンスが行われればいいのではないか。




たとえばダンサーAさんとBさんが、あるダンス場に出かけることを考えてみる。


彼らは共に「仲間が欲しい」という動機を持って、ダンス場にやってきたとしよう。

幸いに、そのダンス場は温度・湿度共になかなかいい設備があって、
トイレもあって、おまけにフリードリンク・スナック付であったので、
とりあえず快適だなぁと感じるに至ったようだ。

彼らはダンス相手を何人か見つけ、目的であった仲間をつくることができたが、
しばらく踊っているうちに、ダンス場に【切り裂きジャックさん(仮)】が表れた。

※ちなみに「切り裂きジャック」と私が呼んでいるのは全くの空想の人物のことです。


Aさんは、次々と切り裂かれて血まみれになるダンサー達の姿を見て「俺はこんな危険なダンス場はイヤだ!」と言って、そそくさと帰っていった。

Bさんは、ダンス場には切り裂きジャックがいるものだと考えていて、それなりにジャックと離れて踊ることができたので、彼は相変わらず快適に踊り続け、おかげで仲間がたくさんできたようだ。


1)何故、安全じゃないから面白くない、というような人が増えているのか。

言うまでもなくBさんは目的を達成できて、楽しんでダンス場を後にしたし、
後で切り裂きジャックについてどう思う?と聞かれても、楽しめればいいじゃん、とそう答える。

一方で、Aさんはそのダンス場について嫌だと思ったし、
ダンス場には切り裂きジャックがいるものだと考えれば尚更、こんなダンス楽しめるわけねーじゃん、となる。


既にお気づきの通りで、
最近 この AさんでもBさんでもないと思われる【安全論者】というのが増えていると思われる。


【安全論者】の発想の源は、ダンス場をより良くしようとする着眼点であり、
なぜこのような人が増えているかというと、ダンス場をより良くしようという気持ちが高まっているということだと考えられ、
【安全論者】は、ダンス場における最も弱者の立場に立って「安全だと思えば楽しめるのに、なぜ【敢えて】安全でないと思うか?」を訴えているものと思われる。


2)何故、特定ダンススタイルの人や新しくダンス人口を増やそう、という考え方の人と意見が食い違うのか。

Wikipediaによると、安全(あんぜん)とは、危険がないこと、被害(有形・無形を問わず)を受ける可能性がないこと、とある。

【安全論者】の特徴はさきほども書いたとおりで、ダンス場における最も弱者の立場に立っていることで、被害を受ける可能性のある全てのものを対象とする。

ダンサーは一人ひとりが安全を望んでいて、被害を与えようと思って踊っているわけではないが、
ご存知の通り、ダンス場における衝突・妨害などの被害は絶えないのである。

【安全論者】の論旨は、より良いダンス場というものを目指しながら、残念ながらいつしか、予測不可能な異質なもの全てを「切り裂きジャック」として、標的とするような風潮となっているように思える。


さらに残念なことに、
最近、特定ダンススタイルのダンサーや、新しくダンス人口を増やそうというダンサーには、
このような【安全論者】の考えが概ね不評である。

傍から見れば、お互いの論は全く論点がずれていることが分かる。



特にタンゴの場合、槍玉に上がりやすいダンサーの特徴は、次のような点である

・流れに比べて相対的に速い動きをする(半拍以下の動きの多用・コルガーダや遠心力の効いたヒーロなど)
・流れに比べて鋭角または逆行する動きをする(逆行移動・鋭角のサカーダ・オーチョを含む)
・流れの前提となる流線(動線)から垂直の動きをする(追い越しを含む)
・平均的車間距離に比べて相対的に大きい動きをする(横移動・後移動・大きなラピスを含む)
・ヒールを上げる(ボレオ・エンガンチョを含む)
・隣接する開けたスペースがあれば早い者勝ちで移動する

これだけではないが、はっきり言って、どれを取っても、どんなダンススタイルであっても、
こういう風に先生が踊ってくださいと言っているとは思えない驚愕の事柄なのである。

つまり、このようなことは、どのようなダンススタイルの特徴でもないので、
そのようなダンサーがたまたまそのダンススタイルだったからと言って、
一概になんらかのダンススタイルを否定するのは考え物である。



最近は、【安全論者】がこのようなダンサーを槍玉に上げるたびに、
何故か自分のことだと思った論者から一斉にピントのずれた反論を受ける。

彼らの論旨を整理すると、
自由な動きで、オープンなアブラソで「胸をつけて踊らない」ことは、ダンス人口を増やそうとする上で大切だ!

というところだ。

ちなみに、私も「タンゴ増員計画」などという妙なコミュニティをやっているおかげで、
過去にもその手のこと考えたことがあるし、過去の私の日記を見てもらえば分かるとおりで、
ダンス人口を増やすために、幾許かのローカライズが必要であるし、
自分もそういう点については重々承知しているつもりだ。



しかしながら、
それと「安全」は別の次元の話だ。



特定の個人の立場で【安全論者】が意見を述べることは、より良いダンス場を求める上で大切な動きだと思う。

ただ、そのような個人の「安全」の感覚は、絶対的な基準にはなり得ないし、ご承知の通り、既に無用の反発が著しい。
このまま議論が収束していくとも思えない。


そのようなことを踏まえて、改めて書かせていただきたいのは、

「安全」かそうでないかという基準は、
最終的には、個人の判断に委ねるのではなく、ダンス場が設定すべきであり、
そのダンス場において、それを満たせば楽しいという共通の一念をもってダンスが行われればいいのではないか。

ということになる。